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レコンキスタ(1) [卷之三薄靡]

 西暦1492年。
 この年はわが明応元年に当たり、駿河興国寺では伊勢長氏が戦国の風雲を蓄えていた。折りしもその前年、伊豆堀越に居館を構えた関東公方足利政知が57歳で没し、その子茶々丸が後を継いだものの、管領上杉一族の信任を得ることがなかった。長氏は箱根の山中で関東をうかがい、郎党の大道寺、松田らとの謀議に忙しかった。伊豆一国を手中に入れ、下克上の幕を切って落とすのは翌明応二年である。

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レコンキスタ(2) [卷之三薄靡]

 すなわちグレゴリウス暦の1492年8月3日、イスパニアのパロス港から3隻の帆船が出航した。全長約30メートル、排水量90トンの旗船「ラ・ガレガ」の甲板では、イタリア人にして冒険家であるクリストファー・コロンブ船長がインド大陸への夢を馳せていた。女王イザベルもまた、この船長に夢を託していた。

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レコンキスタ(3) [卷之三薄靡]

 いずれにせよ、コロンブス隊が威風堂々の上陸を果たし得なかったことは間違いない。
 翌年3月15日、パロス港に帰還したのは、傷ついた2隻の帆船であった。
 ――黄金と香辛料を探索していたとき暴風雨に遭い、一隻が座礁したのである。
 と彼は主張して譲らなかった。

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レコンキスタ(4) [卷之三薄靡]

 コロンブスもベスプッチもイタリア人だった。
 にもかかわらず、イタリア国王は自国内の混乱に忙殺されるばかりで新大陸に興味を示さなかった。また数次にわたって探検隊を送り込んだイスパニアも、北の陸地を植民地にしようとは考えなかった。現在の地勢を承知しているわれわれからすると、まことに不思議なことといわなければならないが、彼らにとって北の大陸は荒涼たる不毛の地にほかならなかった。

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幌馬車は西部を目指す(1) [卷之三薄靡]

 不毛の地と考えられた北の大陸は、しばらく無風のまま過ぎた。ややあって16世紀の末、ようやくこの地にもヨーロッパ人がやってきた。ただしスペイン人のように王を拘束し、皇帝を殺害するといった乱暴は働かなかった。

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幌馬車は西部を目指す(2) [卷之三薄靡]

 1773年の12月、ボストンの港に紅茶の葉を満載した船が到着した。北米では新年を迎えるに当って紅茶葉の需要が強まっていたが、品薄のうえに多額の関税が課せられたため、その価格は庶民が購入できるものでは到底なかった。

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幌馬車は西部を目指す(3) [卷之三薄靡]

 独立の承認から1880年までのおよそ1世紀、アメリカ合衆国は領土の拡張と戦争に明け暮れた。独立のいきさつからいって、フランスこそが強い影響力を持つはずだった。だがそのフランスは、アメリカ合衆国の独立運動に刺激され、勇気を得た市民による革命と、革命後の反動で大混乱に陥っていたし、イギリスはインドの植民地経営と中国・清朝への対応で忙しかった。ともにアメリカにかかわっている余裕がなかった。

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幌馬車は西部を目指す(4) [卷之三薄靡]

 書き残したことがあった。
 アメリカ合衆国独立の遠因となった七年戦争が終結した1763年、スコットランドのグラスゴーで科学研究用機材の製造を行っていた青年実業家が、ある機械装置の改良に取り組んでいた。青年の名はジェームズ・ワットといい、改良に取り組んでいた機械装置は「ニューコメン機関」というものだった。

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マネーサプライ(1) [卷之三薄靡]

 イギリス本国→西アフリカ→北アメリカ→イギリス本国と、大西洋を一巡する三角貿易は、いうまでもなく産業革命によって発生した産業資本経済と歯牙の関係にある。

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マネーサプライ(2) [卷之三薄靡]

 古来、黄金に異様な関心を示したのは、狩猟系民族である。日本では平安時代の末、奥州に大量の黄金が産出したが、藤原三代の栄華を残した以外、人口の移動は起こらなかった。これに対して中国をしばしば脅かした北方騎馬民族は、黄金の冠、黄金の剣、黄金の馬具をこよなく愛し、この特殊な金属を手に入れるために侵略を繰り返した。

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マネーサプライ(3) [卷之三薄靡]

 端緒となったのは、1848年の1月24日だった。
 金脈の第一発見者であるジェームズ・マーシャルの記憶によると、この日は
 「冷え込んでいたが、青空の広がる気持ちのいい日だった」
 という。

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マネーサプライ(4) [卷之三薄靡]

 この話はまたたくうちに全米に広がり、その年の8月、東部の新聞に
 ――カリフォルニア州で金鉱脈。
 というニュースが報じられた。
 さらに尾ひれがついてヨーロッパに伝わった。

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前史(1) [卷之三薄靡]

 初期の計算機は、歯車とバネでできた機械仕掛けの装置で、ソフトウェアは人の頭脳そのものだった。装置を操作する人の思考と行為がプログラムでもあった。精密さにおいて、人より機械が重要と考えられた時代が長かった。だけでなく、機械を動かすための仕掛けという発想がなかった。

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前史(2) [卷之三薄靡]

 19世紀に入って近代工業と資本主義が勃興すると、再び計算機の開発が活発になった。この時代にいたって、ようやく人々は「機械を機械で動かす」ことを考案した。別の言葉でいえば、「自動機械」とか「装置」という考え方が生まれた。自動織機や自動演奏装置が発明され、機関車や自動車が走り始め、工業の時代が始まった。

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前史(3) [卷之三薄靡]

 しばしばコンピュータの発達史では、まれにライプニッツが前振りとして語られ、次にバベージに若干の行数が割かれ、そのあとホレリスに飛躍する。

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前史(4) [卷之三薄靡]

前史第Ⅳ期
 ●1884年 ホレリス(アメリカ)のパンチカード式計算機。
 ●1886年 バロース(アメリカ)の印字装置付き分類集計機。
 ●1889年 レオン・ボレーの乗算器。
 ●1893年 オットー・シュタイガーの「ミリオネア」。
 ●1897年 テートス(イギリス)の計算機。
 ●1897年 フェルト(アメリカ)「コンプトメーター」。
 ●1903年 矢頭亮一(日本)「ヤズ・パテント・アルスモメートル」。
 ●1906年 川口市太郎(日本)「川口式計算機」。
 ●1907年 パワーズ(アメリカ)のパンチカード式計算機。
 ●1911年 モンロー(アメリカ)の計算機。
 ●1912年 大本寅次郎(日本)「虎印計算器」。
 ●1925年 ブッシュ(アメリカ)のアナログ計算機。

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道具から機械へ(1) [卷之三薄靡]

 読者においては、計算機械装置のことを想起していただきたい。そこで筆者は、計算機械装置が開発された経緯について、次のように書いた。

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道具から機械へ(2) [卷之三薄靡]

 自動演奏機というものがあった。
 音符を紙のカードに穿孔し、その孔をピンが突き出すと歯車が回転し、ゼンマイを動作させる。その信号に従って、バイオリンを弾く弓が動き、ピアノの鍵盤が琴線を叩く。

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道具から機械へ(3) [卷之三薄靡]

 その原理をさかのぼると、ジャカール式自動織機にたどりつく。フランスのリヨンに生まれた機械職人ジャカールが考案したものであって、最初は縦糸と横糸の動きを機械的に自動化した単純な装置だった。

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道具から機械へ(4) [卷之三薄靡]

 一方、アメリカ合衆国の西部開拓はカリフォリニア州のゴールドラッシュにひと段落がつき、南部ではイギリスへの綿花輸出が花形産業になった。

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道具から機械へ(5) [卷之三薄靡]

 連邦政府の国勢調査局は1797年から10年ごとに人口調査を実施し、5年おきに予備調査を行っていた。ところが1880年の調査では、最終的な集計を出すのに7年もかかってしまった。駅馬車と鉄道で受け継いで調査票がワシントンまで届けられるうちに、封袋を紛失することもあった。どこに誰が住んでいるかすら分からないことも少なくなかった。

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幕末(1) [卷之三薄靡]

 バベージからホレリスにいたるこの時期、日本はアメリカ合衆国とかかわりが深い。それだけにヨーロッパで作られた近代の機械装置は、多くアメリカ合衆国を経由してもたらされた。
 まずあげるべきは「伝話器」である。こんにち、われわれは「電話」という文字を当てるが、話を伝える器と名付けた幕末の識者の感覚の方が正しいように思われる。

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幕末(2) [卷之三薄靡]

 通商すなわち開港の可否について幕府は回答を出すことができなかった。まずペリーの来航を京都の朝廷に伝え、諸大名に意見を求めたばかりでなく、御目見え以上の幕臣に意見を出させもした。密室の合意と「由らしむべし・知らしめべからず」の原則を貫いて初めて”お上”であることを考えると、このやり方は自らの権威を否定するものだった。

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幕末(3) [卷之三薄靡]

 次に挙げることができるのは、1860年、連邦共和国第16代大統領に就任したエイブラハム・リンカーンである。彼の伝説は幕末の志士たちに、ある思想を与えた。
 ――貧しい開拓農民を父としてイリノイの丸木小屋に生まれ、ろくに学問をする余裕もなく……。
 という伝説は、サクセス・ストーリーを好むアメリカ人がのちに創作したものであって、実際は中流階級の生まれであった。

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幕末(4) [卷之三薄靡]

 通称「ジョン万次郎」のことも忘れるわけにはいかない。
 先回りだが、このジョン万次郎がリンカーンのことを勝海舟に伝え、勝海舟が坂本龍馬にそのことを話した。同じ土佐の出身ということで、後日、龍馬はジョン万次郎に面会し、アメリカの事情をさまざま聞いた。

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幕末(5) [卷之三薄靡]

 万次郎が世に出るきっかけも、アメリカであった。
 嘉永六年6月、アメリカ東インド艦隊のペリー提督が軍艦4隻を率いて開国を迫ったとき、幕府は万次郎を召喚してアメリカの事情を聴取した。その後、老中阿部正弘のお抱えとなり、幕府直参に取り立てられ「中浜」の姓を許された。貧しい漁師が直参旗本になったのだから、動天驚地の出世であった。

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開成所(1) [卷之三薄靡]

 ペリーの黒船が徳川将軍に献上した「伝話器」が江戸湾のお台場で実験に供されていたころ――すなわち元治元年である。この年の1月、将軍徳川家茂が上洛し、朝廷に横浜を鎖港することを奏上した。尊王を誓ったことが攘夷断行を約束したこととなり、幕府は窮地に立たされた。

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タグ:杉 亨二

開成所(2) [卷之三薄靡]

 世の中は騒然としている。
 そうした物音を聞きつつ、江戸城外一橋門の幕府開成所で独り黙々と洋書の翻訳に取り組んでいる男がいた。8月に数えで37歳となったこの者は、名を杉道純という。

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タグ:杉 亨二

開成所(3) [卷之三薄靡]

 蘭方医は、同時に西洋の文字と事情に明るい蘭学者であることが少なくなかった。杉田成卿もその一人であって、ペリーが幕府に手渡したアメリカ大統領フィルモアの親書を翻訳した。

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タグ:杉 亨二

開成所(4) [卷之三薄靡]

 「亨二」と名を改めたのは、開成所教授となった翌年の慶応元年だった。
 慶応二年4月、西洋に赴く機会があった。老中水野忠精がイギリス公使パークスと交渉し、5年間の留学生受け入れの承諾を得たのである。咸臨丸の訪米使節団に随行できなかった杉にとって、再び念願を果たす機会がやってきた。

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タグ:杉 亨二
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