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手がかり(1) [卷之二鶏子]

 『戸谷深造さんと黎明期の情報産業政策』に出ている内容は、知らないことが少なくなかった。
 知る由がなかった。文中にある〔JECC創立が昭和三十六年八月〕に筆者は何をしていたかというと、父親の仕事の関係で移り住んだ新潟県の山奥の「鹿瀬」という小さな町で、冬には雪かきで遊び、春には近くの土堤でノビルや蕨を採った。夏休みともなれば、とこどこに渦を巻く大きな川で泳ぎ、セミやトンボを追いかけていた。

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手がかり(2) [卷之二鶏子]

 「超高速電子計算機開発」プロジェクトは、性能・機能において、IBM社が1964年4月に発表した「IBMシステム/360」に対抗しうる国産コンピュータを開発することに目的があった。

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手がかり(3) [卷之二鶏子]

 調べるには「何が分からないか」が分かればいい。
 折よく、『ソフトウェアに賭ける人たち』という本が手に入った。

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手がかり(4) [卷之二鶏子]

 同書に登場する人物たちがコンピュータと初めて出会ったはいつのころだったのか。登場順に列挙する。(社名・役職は同書表示=2001年10月現在=のママ。年次は西暦)

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記憶の箱(1) [卷之二鶏子]

 当時の情報サービス産業界について書こうにも調べようにも、まとまった資料がない。仮にあったとしても、それだけに頼ったのでは実感のない空疎な文言を連ねるばかりであろう。
 ――どうにかして、生の証言を取りたいものだ。

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記憶の箱(2) [卷之二鶏子]

 1956年――。
 筆者はもの心すらついていなかったので、世の中に関する記憶はほとんどない。というより関心は別のところにあった。つまり以下は、『日本史年表』(日本歴史学研究会編、1994、岩波書店)からの拾い書きである。

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記憶の箱(3) [卷之二鶏子]

  この年の政治的・社会的な話題は、沖縄におけるアメリカ軍基地問題だった。前年の9月に沖縄基地所属の米兵が幼女を暴行して殺害する事件が起こっていたこともあって、7月に沖縄県56市町村が一丸となる県民大会が開かれた。参加者は10万人を上回わったと伝えられる。

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記憶の箱(4) [卷之二鶏子]

 かすかに、このころの記憶がある。
 このとき筆者は神奈川県の大船という町にいて、旧日本帝国海軍が払い下げた住まいの間近かに田んぼがあった。用水が流れる小川にはザリガニ、メダカ、小鮒、タニシなどがいて、木の枝に裁縫の糸を結んで垂らすだけで、面白いようにザリガニが釣れた。

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120/60(1) [卷之二鶏子]

 この年のコンピュータ産業はどうだったか。
 『情報処理産業年表」(日本経営史研究会)には次のような出来事が記録されている。

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120/60(2) [卷之二鶏子]

 折りしもその前年、つまり1955年のことだが、アメリカのレミントンランド社から2台の電子計算機が輸入された。それは真空管を使った小型の商用コンピュータで、前年の1月にレミントンランド社が発表した最新鋭機だった。
 「UNVAC120/60」である。

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120/60(3) [卷之二鶏子]

 国産コンピュータ・メーカーの危機感をあおったのは日本IBMの攻勢にあったといわれる。1954年12月発表の「IBM650」、1960年10月発表の「IBM1404」が急速にユーザーを獲得し、米欧日の電子機器メーカーに基本特許のクロスライセンス契約を求め、加えて日本国内で計算機の製造を始めたのだ。それが、国による国産コンピュータ生産の支援策を強化し国産メーカーを奮起させるきっかけとなった。

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120/60(4) [卷之二鶏子]

 富士写真フイルムが開発した電子計算機「FUJIC」は、実用国産機の第一号といわれる。
 岡崎文次という人が、カメラのレンズを設計する目的で、1949年から開発を進めていた。真空管1700本を使い、並列式二進法回路を備え、性能は加減算処理が0.1ミリ秒、乗算が1.6ミリ秒、除算が2.1ミリ秒だった。

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DPC(1) [卷之二鶏子]

 安藤多喜夫氏と会った日は、夏を思わせる強い日差しが照りつけていた。
 同氏が「株式会社データー・プロセスコンサルタント(DPC)」を創業したのは、1964年の8月である。戸谷深造氏が通産省の電子工業課長に就任したのと時を同じくしている。東京オリンピックの開幕を前に、東海道新幹線が開通し、首都高速道路が建設されるなど、日本経済は活況に満ちていた。

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タグ:安藤多喜夫

DPC(2) [卷之二鶏子]

 EDSとは、すなわちエレクトリック・データ・システムズ社のことで、ロス・ペローという人物が設立した。私費を投じてアメリカ大統領選挙に打って出た人物、といえば少しは分かりがいいかもしれない。

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DPC(3) [卷之二鶏子]

 今のコンピュータはブラックボックスで、何がどう動いているか、さっぱり分からない。人は結果を受け取るだけだけれど、当時はまさに計算機を動かしている実感があった。わたしはワイヤリングもやったけれど、全体のシステムを考えたり、仕事量を見て、人員を配置するのが得意だった。

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DPC(4) [卷之二鶏子]

 ――待遇はどうだったのですか?
 給料はよかったですね。大卒の人より三割方多かったんじゃないかな。仕事はね、最初はアルバイトだから、プリンターのカーボンの処理やパンチカードの運搬といった、力仕事と雑用でした。そのうち機械の操作を教えてもらって、いまでいうとキーパンチャー兼オペレーター兼プログラマーの仕事をするようになりました。

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DPC(5) [卷之二鶏子]

 そのうち朝鮮戦争が休戦に入って在日米軍基地が縮小され、昭和三十四年(1959)に北川さんも島村浩さんと「日本ビジネス」を作るとか、米軍のPCSの仕事をしていた人たちがどんどん独立していった。わたしは先々のことをあまり考えていなかったし、他の人の就職口を探したりしているうち、結局、最後まで残っちゃった。

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証言者(1) [卷之二鶏子]

 ――情報産業にかかわる1950年代のことを知りませんか。
 という筆者の問いかけに、
 「ヒントを教えてあげましょう」
 と言ってくれた人もいた。
 石田浩氏もそうした人の一人である。

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タグ:石田浩

証言者(2) [卷之二鶏子]

 以下は、石田氏の談話をもとに、筆者の調査を加えたものだが――。

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タグ:石田浩

証言者(3) [卷之二鶏子]

 では石田氏はどのようないきさつで占領軍の経営学講座を受講することになったのだろうか。石田氏の回想によると、当時の状況は次のようだった。
――社会に出たのは1949年(昭和二十四)でした。軍事訓練を受けているうち、終戦になってね。大学に入り直したものの、東京はポツンポツンと焼け残ったビルがある程度で、街には復員兵や戦争孤児があふれていました。

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タグ:石田浩

証言者(4) [卷之二鶏子]

 ――MTPコースは、英語ができて将来有望な若手を20人ほど全国から選抜して、経営管理手法を教えていたんです。手引書やカリキュラムが日本語化される前のことで、現在のように〔一単元10時間〕〔一クラス10人〕というような体系もなく、手探りの授業が続けられていました。

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サムライ(1) [卷之二鶏子]

 ITサービス産業にかける情熱をひしひしと感じた人物がいる。”その人”には、安藤多喜夫氏とあい前後してインタビューをする機会を得た。
 会ったのは、そろそろ梅雨が明けようとするころだったろうか。約束した場所は東京・渋谷の東急会館一階、プレイガイドの前、ということだった。わたしは地下鉄銀座線から明治通りをまたぐ通路を経て、文化会館の階段から降りていった。”その人”は背中を向けて立っていた。私が表通りからやってくると考えたのだろう。
 名木田兵二。

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サムライ(2) [卷之二鶏子]

 近くの喫茶店に入った。
 本題に入る前の雑談の中で、共通の知己の病没を伝えた。それを聞いたとき、一瞬だが、スプーンを動かす手が止まった。その人物はかつて、名木田氏の下で部長として勤めていた。ともに譲れない線というものがあって、上司と部下の関係を超えて議論したことがある、と耳にしたことがあった。

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タグ:名木田兵ニ

サムライ(3) [卷之二鶏子]

 東京オリンピックの年は長野県の須坂工場で工場長をしていました。翌年、営業部門に配属されたのですが、初めての業務ですし、もう46歳になっていましたけど、がむしゃらに仕事をしましたよ。

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タグ:名木田兵ニ

サムライ(4) [卷之二鶏子]

 1965年に発売された「FACOM230―10」は、それまでの電子計算機と比べるとはるかに使いやすかった。加えてカナ文字が使えるプログラミング言語「カナCOBOL」でプログラムを作ることができた。富士通は
 ――一気に市場を席巻しよう。
 と考えた。

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タグ:名木田兵ニ

余燼いまだ(1) [卷之二鶏子]

 前節の続き。
 富士通信機製造は「FACOM230―10」の営業部隊を新設し、名木田氏を推進役として引っ張り出した――というところまで書いた。営業は未経験でも、工場長として発揮した統率力と企画力が評価された。

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タグ:名木田兵ニ

余燼いまだ(2) [卷之二鶏子]

 再び名木田氏とのインタビュー――。

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タグ:名木田兵ニ

余燼いまだ(3) [卷之二鶏子]

 1970年、富士通は富士通ファコムの教育、営業、システム開発の三部門を本社に移籍するという決定を下しました。そのゴタゴタで、日本IBM から移籍してきたエンジニアをはじめとする“サムライ”たちは次々に退職していきました。

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タグ:名木田兵ニ

余燼いまだ(4) [卷之二鶏子]

 当時、富士通は、子会社に「富士通」の名乗りを認めていなかった。
 「長い将来にわたって富士通の冠を認めてくださらなくても結構です」
 名木田氏は言った。

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タグ:名木田兵ニ

かみよのかみ(1) [卷之二鶏子]

 以後、精力的な取材が続いた。
 ほとんど連日のように業界関係者と会った。1950年代のことを語ってもらうのでなく、それぞれにとっての“コンピュータことはじめ”をインタビューさせてもらった。「独立系」と総称されるソフト会社の場合、多くがオーナー会社で創業者は健在であることが少なくない。そのインタビューを通じてヒントなり手がかりなりを得ることができるのではあるまいか。つまり筆者の取材は人探しの追跡調査に近い。

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タグ:奈良総一郎
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