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五月(1) [巻之一契機]

 5月――。
 この季節を語るとき、しばしば
 〔風かおる〕
 という言葉が使われる。
 〔薫風〕
 という言葉もある。

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タグ:溟涬篇

五月(2) [巻之一契機]

 もう一つ、好きなのは次の一節である。

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五月(3) [巻之一契機]

 俳聖と尊称されるだけに、蕉風を学ばんとする者が絶えなかった。このため『奥の細道』は諸版が伝えられ、写しが行われるうち「五月雨の」が「五月雨や」に変わり、「光堂」が「ひかり堂」に直るなど諸本が混在することになった。

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五月(4) [巻之一契機]

 その蝉について、昭和のはじめ、ちょっとした論争があった。

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遍路(1) [巻之一契機]

 芭蕉が山寺の蝉に託したのは、おそらくおのれ自身の生涯であろう。彼は奥の細道に臨む2年前、

   旅人と我名よばれん初しぐれ

 と詠み、また旅立ちに臨む心境を次のように書いた。

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遍路(2) [巻之一契機]

 2004年の5月31日は、前の日と打って変わってひどく蒸し暑かった。2週間ほど前、自宅に宛てて、白封筒に入った知らせが届いていた。

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タグ:野﨑克己

遍路(3) [巻之一契機]

 受付けで渡された小冊子には、次のようにあった。

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タグ:野﨑克己

遍路(4) [巻之一契機]

 「故野﨑克己お別れの会」は粛々と進められていった。
 かつて通産省の情報処理振興課長として、野﨑氏らソフト業界の代表者と丁々発止で渡りあった吉田文毅氏、情報処理産業厚生年金基金の創設をはじめ業界活動で二人三脚の相方であった丸森隆吾氏、情報システム安全対策コンサルタントの北村亘氏がそれぞれに送る言葉を語り、現社長の河合輝欣氏が御礼の言葉を述べた。

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タグ:野﨑克己

遍路(5) [巻之一契機]

 東京システム技研の北小路矗氏がいた。体が一回り小さくなって見えた。
 ――たまにメールでも下さい。
 と言って、名刺の裏にメールアドレスを書いてくれた。

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タグ:野﨑克己

下天のうち(1) [巻之一契機]

 2001年の3月、大川功氏が東京・新宿の病院で心不全のため死去。74歳だった。大阪計算代行、日本計算センターを経てコンピューターサービスを設立し、創業14年にしてソフト業として初めて株式を上場した。

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下天のうち(2) [巻之一契機]

 人に限らず、生あるものはいつか、必ず死ぬ。
 ――回顧の時期である。
 という。

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下天のうち(3) [巻之一契機]

 新聞社に勤めていた当時――といっても、つい最近のことだが――、ほとんどは唐突に、数人の学生がオフィスを訪ねてきた。「情報」「IT」をうたった学部、学科がにわかに開設され、自ずから社会に臨む若者が増えた。卒業論文を書かねばならない。

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下天のうち(4) [巻之一契機]

 ここでいう“日常”とは、毎朝8時までにオフィスに出て主要な一般紙と産業紙に目を通し、記者の一人ひとりにその日の指示を与え、作業のスケジュールを組み、自身の取材と記事を仕上げ、かつ全員が上げてくる記事を校閲し、場合によっては全面的に書き直す。

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下天のうち(5) [巻之一契機]

 IT業界の専門紙に長く籍を置き、週刊であることを忘れて日刊紙と特ダネを競い、取材に飛び回ることが面白かった。それを虚しく感じるようになったのは、厭いたということである。日常に厭いた者が日常を差配していいはずがない。道を譲らなければ、後進はいつまでも「部下」であり続けなければならない。

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わたくしごと(1) [巻之一契機]

 わたくしごとから書き起こしたい。
 オイルショックという出来事があった。原油の価格が2か月で4倍に跳ね上がった。町の店先にトイレットペーパーや洗剤を買い求める長い列ができた。因果関係がはっきりしないまま、物価が上がり商品が品薄になり、企業は採用を半減した。

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わたくしごと(2) [巻之一契機]

 あるとき、大阪の吹田にコンピュータを届ける仕事があった。東京を出発したのは午後4時だった。東名高速に乗ってしばらく行くと、大渋滞に巻き込まれた。
 「この先、通交止め。一般道に迂回せよ」
 という。

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わたくしごと(3) [巻之一契機]

 雪の道ではタイヤにかけるチェーンが凍って、素手で掴むと大変なことになった。大雨の時にワイパーが故障して動けなくなったこともあった。梱包のダンボールをカッターで切っているうち、ダンボールの切り口で手のひらをザックリ裂いてしまったこともあった。

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わたくしごと(4) [巻之一契機]

 磁気テープは、映画館でかけるフィルムのように大きなリールに巻き取られていた。それを何本も腕に通し、コンピュータ・ルームに運んでいく。当時、計算センターのコンピュータ・ルームは冷房がひどく効いていたこともあったのだが、何となく研究室のイメージがあって、白衣を羽織ったオペレータやプログラマが少なくなかった。

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偶然の資料(1) [巻之一契機]

 わたくしごとの続き。だが、時を戻す。
 どこまで戻すかというと、筆者が本書を書くことを思いたつ経緯のところである。オイルショックから2003年6月に飛ぶのだから、ワープといったほうがいい。読者に戸惑いを与えることになるかもしれない。

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偶然の資料(2) [巻之一契機]

 取材の仕方も分からないまま、入社とほとんど同時に取材の現場に出た。名刺すらなかった。泳ぎを教えるのに、沖に漕ぎ出した舟から子どもを放り投げるのと似ている。

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偶然の資料(3) [巻之一契機]

 手渡された小冊子には、『座談会・ソフト協設立当時を振り返る』というタイトルがついていた。サブタイトルは、《14年間で世界会議を開催できるまでに発展》である。総ページ数は10ページで、第1ページ目に座談会の様子を伝える写真が付いている。

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偶然の資料(4) [巻之一契機]

 「ソフト協」というのは、1970年6月22日に発足した「社団法人ソフトウェア産業振興協会」のこと、「世界会議」は1984年6月11日から13日まで、3日間にわたって東京・新宿の京王プラザホテルで開催された「世界情報処理産業会議」のことだから、このコピーのもととなった原稿は、おそらく1984年の夏から秋にかけて起こされたものであろう。

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知らざる事実(1) [巻之一契機]

 そのとき手渡された資料は、もう一つあった。
 これも座談会のコピーで、表題は『戸谷深造さんと黎明期の情報産業政策』とある。本文の上に打ってある「通商産業省時代」は媒体の名前か、特集のテーマであろう。

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知らざる事実(2) [巻之一契機]

 要するに「座談会」というのはタイトルだけのことで、「旧知が集まっての放談会」ないし同級会のワイワイガヤガヤに近い。細かな説明もない。まことに不親切きわまりない記事なのである。以下もまったく変わらない。

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知らざる事実(3) [巻之一契機]

 1940年、徳川直参旗本の家に生まれ、法政大学を出て1963年に産経新聞社に記者として入った。のち「日本工業新聞」を経て1970年から1993年までコンピュータ・エージ社社長。同社は月刊誌「コンピュートピア」で知られる。ややあって通産省とIT産業界から請われて株式会社日本教育情報機器(ECS)の社長に就任し、2003年8月に日本情報処理開発協会(JIPDEC)特別顧問に転じた。

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知らざる事実(4) [巻之一契機]

 日本では高千穂交易という機械商社が代理店となっていた。もとは大阪にあった建築機材の商社だったが、1965年当時には東京の麹町に本社を移し、会計処理向けの中型コンピュータ事業が波に乗っていた。現在もJR中央線の四谷駅前に自社ビルを構えているが、この話柄の時代はバロース社のコンピュータを一手に扱い、たいそうな羽振りだった。

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