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弱電メーカー(1) [卷之六游魚]

〈伝話器〉

 この章は、本書の主題である社会・経済の情報化ないし、ITサービス(ソフト/サービス)産業と直接の関係がない。第二次大戦後、国策に沿ってコンピュータを国産化する電機・電子機器メーカーのことである。
 主題からやや遠いことに一章を費やすのはなぜであるかといえば、”騎虎の勢い”とでもいうものであって、筆者が読者にいえるのは
 「まぁ知っておいて損はあるまい」
 という程度のことでしかない。ただ、あとあとのことにかかわりがある。
 そこでやや端折りながら、主要な人物と出来事を記す。
 1877年(明治十)にアメリカから、2台の電話機が日本政府にもたらされていたことはすでに書いた。その翌年の4月、二代目田中久重という人が「伝話機」を試作している。からくり人形や久留米絣の自動織機を発明した「からくり儀右衛門(初代田中久重)」の養子で、二代目を襲名した人物である。のちに東京・麻布に田中製作所を興し、これが芝浦製作所となり、こんにちの東芝の前身となった。
 明治政府の工部省(1885年に逓信省)は1877年の12月、同省所管の電信局製機所にアメリカから輸入された電話機を模造するよう命じた。この仕事に従事したのは吉崎牙太郎、三吉正一という2人の技術者で、2人は翌年6月に模倣機を完成させている。
 うち、吉崎は1881年(明治十四)に独立して「明工社」を設立した。こんにちの沖電気工業である。また三吉は1885年(明治十八)に白熱灯用発電機の開発に成功したのち、工部省が廃止されたのを機に独立して、東京・三田に三吉電機工場を設立した。
 この年――。
 というのは1895年のことだが、政府は電話網を全国に展開すべく「第一次伝話拡張計画」を策定した。日清戦争を機に鉄道、金融、紡績といった産業が一気に拡大し、このために電話の需要が勃興した。日本における電話の始まりは1890年、渋澤栄一、大倉喜八郎、森村市太郎らによって始まった東京、横浜での交換事業であって、当初のそれは交換局2、通話所16、加入者344にすぎず、加入料50円という高価なものだった。6年を経て加入者は2858と7倍以上に増加したが、なお4098の積滞があった。
 このため逓信省の大井才太郎は
 ――商工業の発展を期するには思い切った公共投資が必須である。
 として、第8回議会に議案を提出したわけだった。
 計画では、向こう7年間に総額1280万円の国家予算を投入し、加入者を3万に増やすというものだった。この報せを受けて、アメリカの電話機市場を独占していたウエスタン・エレクトリック(WE)社は日本で電話機を製造・販売することを計画した。それ実現すべく、国内で唯1の電話機メーカーだった明工社に合弁会社の設立を打診した。明工社はすでにWE社と提携関係にあったので、交渉は容易にまとまると予想された。

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