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意気揚々(3) [卷之六游魚]

 1928年(昭和三)の秋、黒澤商店に暁星中学を出た一人の若者が入社してきた。
 暁星中学といえば、1888年(明治二十一)8月に麹町区飯田町(現千代田区飯田橋)に開校を許可された私立学校で、その始めは明治初年、五人の宣教師によって築地の外国人居留地に開設された外国人学校にさかのぼる。昭和初期も同校は伝統を受け継ぎ、外国人も通う国際色豊かなハイカラな学校だった。
 青年はやや面長で、大人しそうな顔つきや物腰から、育ちのよさが見て取れた。
 名は北川宗助といった。
 生まれは千葉県佐原だが、早くに縁戚の養子となった。つまり「北川」は養家の姓で、実家は「小森」である。高峰譲吉の仲介で黒澤が懇意となった野田醤油社長である八代目茂木佐平治の縁者ということだったが、実をいうとその娘の子ども、つまり孫に当たった。入社時、20歳である。
 小森家の次男として生まれた宗助は5歳のとき、父安蔵の生家である北川家の養子となり、1928年のただいま、黒澤貞次郎商店に入った。母方の祖父・茂木左平治が懇意だったというだけでなく、父方の祖父が黒澤貞次郎に創業資金を提供したという関係があった。
 黒澤はこの良家の子息を「宗ちゃん」と呼んで、バロース社の会計機やタイマーの保守業務を割り当てた。
 「宗ちゃん」はことのほか覚えがよく、器械の操作に興味を持っているらしかった。それを見て黒澤は、自社の管理業務をホレリス式統計会計機械装置で処理するよう命じた。
 まず給与計算からスタートし、経理全般、販売集計、販売分析といった業務が追加された。この時代、個人商店の給与や売上高の計算は店主が行うのが常識だった。それを北川に任せたのは”身内”の意識があったためであろう。
 のちに北川は、自叙伝『情報産業この道六十年』上巻で
 「子どものころから機械いじりは好きでした。機械の修理とか管理とかいう仕事に抵抗はありませんでした」
 と語っている。
 パンチカード型統計会計機械装置は、現在のコンピューターと違ってOSやユーティリティ・プログラムを内蔵していなかった。計算機構の操作や処理データのすべてを、その都度、パンチカードから読み取り、演算回路を専門家が設定しなければならなかった。また1台の装置で複数の処理ができず、分類機や集計機など単機能の機械装置を組み合わせ、計算結果をカードにパンチして印字するというものだった。プログラムというものもなければ、オペレーションの概念もなかった。
 ホレリス式統計会計機械装置の操作法やリレーの配線法などを北川に伝授したのは、森村商事から移籍していた水品浩である。黒澤商店の2階で行われていた計算機処理の風景写真を見ると、カードの穿孔を和服姿の女子事務員が行っている。女性が働くということ自体、珍しい時代だった。
 北川回顧録から当時の様子を抜粋する。

 販売分析、販売統計、経理業務などを機械化するため、帳票の設計やカードのレイアウト、パンチから集計に至るまで、全部私一人でやりました。そのために販売分析・統計、経理に関する資料を買って、ずいぶん勉強したものです。
 (中略)
 タービュレーターは配線盤が機械に固定されていて、機械の下にもぐって配線しました。昔の電話交換機のプラグと同じようなものです。配線を変えることによって、いろいろと思い通りの帳票がアウトプットできるものだから、それは便利なものでした。外部記憶のプログラムというわけです。

 この実演作業は官公庁や軍部、銀行や生損保会社などから注目を集めたらしい。装置の導入を検討する役所や企業の担当者が連日のように訪問し、北川は実演をしながら同時に営業もした。逓信省の簡易保険局は、この実演作業がきっかけでホレリス式の採用を決めた。
 それと同時に、機械装置を購入できない企業から事務計算業務を受託し、あるいは導入を検討する企業向けにテストなどを有償で受注した。白木屋百貨店(現東急百貨店)や陸軍省大臣官房、千代田生命保険などが頻繁に黒澤商店の計算機を見学し、また利用した。このときの経験が、のちに北川が共同センター型受託計算サービス業を創業する基礎となった。
 ところがこうした彼らの努力もむなしく、いざ正式な発注となると、ユーザーが選択したのはパワーズ式だった。つまり黒澤商店は三井物産のために普及啓蒙活動をしているようなかたちになっていた。1931年(昭和六)のこととして日本IBM社史はこう記している。

 昭和六年になると、三菱造船の長崎造船所が3月をもって契約の解除を申し入れ、ついで日本陶器につぐ早い時期からの一貫した利用者であった同社の神戸造船所も翌7年末をもって解約を申し入れてきた。
 (中略)
 かくて昭和六、七年のいわゆる昭和恐慌といわれた時期には工業会社でIBMの機械を使用しているカストマーはほとんど存在しない状態となったのである。

 三菱造船が解約を通告した直接の原因は、ワシントン、ロンドンの二度の軍縮会議による受注の減少だった。事実、1931、32年度の三菱造船の決算は赤字に転落している。しかしこれは三菱造船に限ったことではなかった。IBM社がカスタマーに課した
 ――パンチカードを必ず年間40万枚を購入すること。
 という条項は、カスタマーが増え続けることを前提に設定されていた。黒澤や水品はその落とし穴に気がつかなかった。たしかに契約件数が増え続ければ、国内で独占しているパンチカードだけで相当の利益を確保できる。ところがレンタル制であればこそ、ユーザー企業は契約を打ち切ることができるのである。
 黒澤は唸った。

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