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意気揚々(2) [卷之六游魚]

 契約が1件取れれば年間数千円の賃貸料が入ってくるうえ、消耗品であるパンチカードが間違いなく売れるのだから、これほど旨味のある商売はなかった。であればこそ黒澤は営業課長に据えた水品に裁量を任せることができた。 黒澤商店(ないし水品浩)は、こんにちのITサービス産業の原点となるいくつかの新しい試みを行っている。一つは見込み企業の業務を分析して機械化を提案するシステム設計サービス、一つはユーザーの日常のシステム運用をサポートするフィールドサービス、一つは受託計算サービスだった。
 いずれもレンタル制ゆえの「苦肉の策」のきらいもあるが、機械装置だけ売るのでなく、カスタマーの業務を分析して、必要な機械装置の組み合わせを提案するというのは、斬新な試みだった。結果としてハードウェアからソフト/サービス重視の足がかりとなったことは間違いなかった。
 営業を統括していたのは、森村商事からの営業権譲渡と同時に黒澤商店に移籍した水品浩である。水品は見込み企業にレンタル制を理解してもらう努力を続けていたが、そのためには見込み企業に統計会計機械装置のメリットを提案しなければならなかった。
 提案書は、最終的に機械装置のレンタル料金の設定に落ち着くが、どのような機械装置が適しているか、穿孔機は何台設置すべきかを見積もらなければならない。この作業は、現在いう「業務分析」であり、システム設計に相当する。その意味で水品は日本人初のコンサルタントであり、プロのシステム・エンジニアだった。
 同時に彼は、自らフィールドエンジニアとしてメンテナンスサービスに奔走した。「徹底したサービス」が第一の営業戦略だったといっていい。パンチカード式統計会計機械装置について、その機構まで熟知していたのは水品しかいなかった。
 あるとき、三菱造船の長崎造船所から、
 「どうもマシンの具合が悪い」
 という報せが入った。
 水品は必要なパーツを携えて列車に乗った。
 新幹線も航空機もなかった時代である。東海道本線で東京から大阪まで13時間を要した。それから山陽本線、鹿児島本線、佐世保線などを乗り継ぎ、丸一日以上かけてようやく長崎造船所に着いて修理を完了した。
 ところが、水品が東京に向かう列車に乗っているさなかに、再び長崎から東京の黒澤商店に、
 「まだ調子がおかしい」
 という電報が届いた。
 こうしたことが度々あった。ユーザーから年間保守料を徴収している手前、時間と費用がかかるのを理由に拒否することはできなかった。だが、行ってみて初めて不具合の原因が分かるのでは、部品の手配に過分な時を浪費してしまう。
 そこで黒澤商店はIBM社のカスタマーに、日常的なトラブルを自分たちの力で解決できるようにした。いま風にいえば、メンテナンス技術を教え、必要に応じてパーツを預けるようにした。ユーザー教育には水品が当たった。これで黒澤商店の人手不足はかなり緩和されたが、同時にそれは、国内に多くのコンピューターエンジニア、システムエンジニアを育成したことを意味していた。
 さらに黒澤貞次郎は、それまでバロース社の計算機で行っていた従業員の給与計算業務を、ホレリス式統計会計機械装置に移行した。森村商事から引き継いだ穿孔機や分類機、集計機などは、東京・銀座の本社ビル2階に展示してあった。「どうせなら、実際に動かしているところを見てもらった方がいい」と考えたのだ。

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