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世代交代(1) [卷之六游魚]

 黒澤商店がホレリス式統計会計機械装置を扱った1927年から1937年にかけての世相を概観しておきたい。
 計算機の普及や利用技術を主軸にすえる本書からすると、この期間は、
 ――まことに奇妙な時代。
 と言うほかはない。 とにかく景気はよくなかった。にもかかわらず、計算機が売れた。書類用のファイルやバインダー、タイムレコーダーといった事務機器、「TIGER」ブランドの手廻し式計算機なども売れた。計算機や事務機器の世界から見れば、最初の隆盛期だったといっていい。
 なぜかというと――。
 以下は一般的に指摘されることだが、わずかに関東大震災のあと数年、東京や横浜ではビルや住宅、道路や橋の再建で経済が潤った。地震に強く、火事でも燃えない鉄筋コンクリートの大規模な建築物が相次いで建てられた。複雑で大量の計算業務が発生し、それまでのソロバンを頼りにしていた手計算では間に合わなくなった、という。
 なるほど、一理はある。
 ――第一次大戦の好況で肥大化した企業や商店が、不況に備えるべく事務能率を改善し、人件費の圧縮を追求し始めたのだ。
 と言う向きもある。
 たしかにそれも一つの要因には違いない。だが、その動きを後押ししたのは普及啓蒙の活動だった。
 〔計算機元年〕の項で見たように、大正末期から「執務能率の増進」「能率増進」が盛んに指摘されていたし、日本能率連合会(日本能率協会の前身)から『産業能率』という雑誌が発刊された。坂本重関が『事務能率増進法』を刊行したのは1930年6月、鈴木久蔵が『現業事務能率講話』を著わしたのは同年の12月だった。また1933年になると、第1回統計機械技術研究会が東京東亜会館で開かれた。こうした啓蒙活動が企業経営者に計算事務の機械化の必要性を認識させたことは疑いを得ない。
 もう一つ重要なことは、「数字」の問題だった。このことに最初に気がついたのが前島密だったことはすでに書いた。
 いうまでもなく、漢数字の「十」「百」「千」「万」と算用数字(アラビア数字)の「10」「100」「1000」は意味が異なる。漢字の「十」「百」「千」はそれぞれの数量に当てられた単独の文字であるのに対し、算用数字は「0」から「9」までの数字の組み合わせに過ぎない。前者は”表現”に類し、後者は”表記”に属する。領収書や寺社への寄付は漢数字で構わないが、これを集計し項目ごとに分類するには、むろん算用数字が適している。
 現在のわたしたちからすると、
 ――えっ?
 という感じなのだが、実に昭和初期まで、統計会計機械装置においてさえ、人々はその結果を漢数字で表わしていた。伝票から機械装置にインプットするにも、機械装置がアウトプットした結果を表に写す際にも、人々は漢数字を算用数字に変換する作業をこなしていたのである。
 1935年4月、日本能率連合会が
 ――統計諸表はアラビア数字で表記しようではないか。
 と提唱したのは、あたかも裸の王様に子どもが発した
 「なぜあなたは裸なの?」
 という質問に等しい。この提言がきっかけとなって、まず公共機関が公表する統計が算用数字に変わり、民間企業でも当たり前のことが当たり前に行われるようになっていった。計算機械装置の利用が広がったのには、このような事情もあった。

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