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黒澤村(2) [卷之六游魚]

〈八城勘二〉

 黒澤は1909年(明治四十二)、東京・銀座の松屋デパート前に鉄筋コンクリート造・3階建ての、当時としては斬新なオフィスビルを自ら設計・施工して完成させている。「黒澤貞次郎商店」の名を「黒澤商店」に改めたのは、このときだった。
現在に残る黒澤商店本社ビルの写真を見ると、2階と3階の間に「業務用器械」「黒澤商店」「KUROSAWA BUSINESS EQUIPMENT」の文字が横書きで穿たれている。その規模は、個人商店のものとは思えないほど立派な外観である。
 そのかたわら、彼は蒲田新宿町(現大田区御園)に、やはり鉄筋コンクリートの自社工場2棟を建設し、ここで事務機器・用品を生産した。「鉄筋コンクリート」というだけで、珍しがられた時代だった。
 蒲田工場で生産したのは、おおがかりな機械装置ではなかった。ゼム・クリップや複写用のカーボン紙、書類ファイル、ルーズリーフといった事務用品が中心であって、1部に機械生産を取り入れてはいたものの、家内制手工業の域を出ていなかった。
 そうした事務用の小物や用品は、アメリカやヨーロッパから物品を輸入した際、同梱されていた説明書や伝票に付いていたものだった。初めてそれを見たとき、黒澤商店の従業員は使い方が分からず、出荷元に問いただしたこともあった。事務機械の貿易に携わったことが、図らずも欧米における先進の事務用品を知ることにつながった。
 ところが、関東大震災が黒澤に窮地をもたらした。
 震災で黒澤は東京・蒲田の工場を失い、本社も火災にあった。幸いだったのは、鉄筋のビルだったことである。すべての資産を灰にしたが、ビルが残った。このとき黒澤商店でタイプライターの販売を担当していた八城勘二(のち「日本事務器商会」に移籍)は、

 われわれは、震災で不明になった顧客の所在をつきとめるのに大変な苦労をしていたものだ。ところが、震災で受けた黒澤社長のショックは大きすぎた。われわれは、いるにもいづらい状況だった。

 と語っている。
 また支配人だった田中啓次郎(のち「日本事務器商会」を創業)は、

 冷静に復興の目処を立てるにしては被害が大きく、打撃があまりにも大きすぎた。こうなると従業員をかかえているのは、店主として大きい負担であったに違いない。とりわけ高給者ほど負担が大きい。店主がそうした負担を感じていることは、直接間接にわれわれの耳に達するのだった。

 と回想している。
 以上のことは『日本事務器株式会社七十五年史』に見えている。

【補注】


黒澤商店本社ビル 現在に残る黒澤商店本社ビルの写真を比較すると、森村商事本社ビルの模倣である部分が少なくない。黒澤貞次郎は起業家の先人として森村市太郎・開作父子に心酔していた。
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