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女性は太陽(4) [卷之五靉靆]

 〈青鞜〉

 もう一人、奥村明という女性がいた。 「明」は〔はる〕と訓むのが正しい。
 ただし「奥村」の姓は伴侶となった洋画家・奥村博に入籍した1941年からの名乗りで、生家の姓は「平塚」である。
 こんにち、「平塚らいてう」のペンネームで知られる。 1886年(明治十九)東京に生まれた。父定次郎は会計監査院の平凡な官吏であった。1906年(明治三十九)日本女子大を卒業したが、併せて津田英学塾に通い、国文学、哲学、宗教、英語、英文学になみなみならぬ才能を示した。5年後の1911年9月、日本女子大の同窓生4人と同人文芸誌『青踏』を創刊した。
 その創刊の辞に彼女は 「元始女性は太陽であった」 と書いた。
 この言葉から筆者などは邪馬台国の女王卑弥呼を連想するのだが、彼女がこう書いた由来も、あるいはそうであったかもしれない。自身、才能と能力にあふれ、自ら以て「新しい女性」を認じていた。
 女子大を卒業した年の厳冬、東京帝大卒の小説家・森田草平(本名「米松」、1881~1949)と駆け落ちし、那須塩原の尾頭峠に逃げた。当時、森田はすでに「夏目漱石の弟子」として知られていた
。 ――新進気鋭の小説家が、女子大を出たばかりの良家の子女と心中に走った。
 マスコミにとってはこのうえない好餌だった。平塚らいてうを語るとき、この「塩原事件」が必ず引き合いに出されるのは、のちの森田に対するらいてうの態度によっている。
 森田は1909年、逃避行の様子を小説『煤煙』として発表した。
 これが好評となって、長編『自叙伝』をものし、戯曲『袈裟御前』などで作家の座を確定した。
 これに対して彼女は臆することなく所信を述べ、自分との恋愛事情を小説と称して暴露した行為を痛烈に批判した。その批判が彼女の名声を高めた、ともいえる。
 青踏社は自我と自立の意識ある女性や女性解放の賛同者から熱烈な支持を受けた。この結社が支持を得たのには与謝野晶子(本名・晶(しょう)1887~1942)や長谷川時雨(本名・やす、1879~1941)が参集したことが要因として挙げられる。のち、市川房枝(のち参院議員、1893~1971)、奥むめお(のち参院議員、1895~1997)、高群逸枝(1894~1964)といった女性解放運動家を育て、女性の社会的地位向上を果たすべく、治安警察法改正など法制度の改革に尽力した。
 青鞜社に参加した女流作家のことを忘れることができない。
 まず記すべきは小手川ヤエである。 1885年(明治十八)の6月、大分県臼杵市の造り酒屋の長女に生まれ、1900年に上京して明治女学院に学んだ。2年後、同郷の野上豊一郎が一高に入学してより以後、豊一郎を介して寺田寅彦、夏目漱石の知己を得た。女学院を卒後、ロンドン留学から帰国した豊一郎と結婚して姓を「野上」に改め、1907年に漱石の紹介で『ホトギス』に短編『縁』『七夕さま』を発表した。
 野上弥生子のペンネームで知られる彼女の白眉は、1922年(大正十一)に発表した『海神丸』であろう。
 漁船が時化にあい、漂流する。飲み水もなく、食糧が絶え、死んだ僚友の肉を食べて生き残った漁師の話を、骨太に描く。おそらく男であれば、ああまで簡潔には描けまい。そこには夫豊一郎とともに探究した能の美学が潜んでいる。女性趣味的なロマンティシズムを拒否し、荒々しい人生を直視した筆致もまた、大正の精神であったかもしれない。
 ちなみに野上豊一郎は東大卒後、九州帝国大学教授を経て法政大学教授、1946年学長、1947年総長に就任し、1950年2月に66歳で没した。妻・ヤエは長寿を得て、100歳まで一と月余を残して他界。

【補注】


青踏 この名の由来には二つの説がある。一つは俳句の春の季語「青き踏む」で、「踏青」ともいう。新緑にあふれた春の野を歩くことを指し、「女性にとって冬の時代は終った」という意味が込められているという。  もう一つはヨーロッパで流行していた女性用靴下「ブルー・ストッキング」を直訳したとする説である。靴下が日本に舶来したのは、遠く安土桃山時代にさかのぼり、オランダやオポルトガルの商人たちが穿いていたのを伊達者が着用したのが最初とされる。水戸黄門の異名で知られる徳川光圀が使用した長沓下が残っている。 近代においては鹿鳴館時代に貴婦人たちが着用し、そもそも男性の礼装だったブルー・ストッキングを女性が着用することをもって婦人解放の旗印にした、という。両説とも説得力があるが、平塚らいてうはブルー・ストッキングから「青鞜」の名を思いつき、これに与謝野晶子が俳句の季語の意味を重ねたものらしい。
青踏社の参加者 このとき与謝野晶子はすでに歌壇で名を成しており、平塚らいてうは三顧の礼をもって青踏社への参加を要請した。晶子ははじめ平塚の申し出を辞退することも考えたが、「女性の自立」という平塚の言葉に動かされた。雑誌『青踏』創刊号には、晶子の文章が冒頭を飾っている。
 ちなみに長谷川時雨の本名は「長谷川康子」とする説もある。本書では『日本人名辞典』(三省堂)に従った。
小説『海神丸』 実際にあった遭難事件をもとに描いている。野上は第二次大戦後、事件の人物と面会し『後日物語』を書いた。



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巖汀亭日乗

纏向(まきむく)遺跡は、第2次対戦前から、考古学会で弥生時代~古墳時代にかけて大規模な集落都市が埋まっていると注目されていました。実在した可能性が高い初代大王「ミマキイリヒコイニエ」(8世紀に「崇神」と名づけられた天皇)に縁がある三輪大社のふもとで、箸墓古墳には卑弥呼の墓説が付きまとっています。
もし箸墓が卑弥呼の墓なら、そこに「親魏倭王」の金印が埋まっているはずだ、というのは、中国の古代印制からいうと成立しないように思います。纏向遺跡の住居跡から、吉備(岡山)、濃尾(愛知・岐阜)、越(福井)といった各地の様式を残した土器が出土していて、それは各地の特産物と人がこの地で暮らしていたことを示します。
四方八方から道が集まってくるので、ヤチマタ(八街)という言葉が生まれたことを考えると、「ヤチマタ」が「ヤマタ」⇔「ヤマト」に転じた可能性は捨て切れません。邪馬台国論争から離れて、私も纏向遺跡が3世紀から5世紀にかけて王都といっていい都市だったと考えていいと思っています。
by 巖汀亭日乗 (2009-11-10 23:58) 

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